Reading's Copy of the Bayeux Tapestry (バイユー・タペストリーのレディング復刻版)
金曜の夜ににRye(ライ)の撮影から帰ってきて、「なるべく早く~」と頼まれていたので、土日でポストプロセスを仕上げて、ただいまWeTransfer転送中。
全く・・・「撮りすぎ注意」もいいとこで、最終仕上げが200枚弱で、あー、もう完全に撮りすぎ。 それでもまぁ、喜んでもらえるといいのだけど。
標本箱はReading(レディング)の話の続きで、今回はライヴの前に街をウロウロしていて立ち寄った、Reading Museum(レディング博物館)に収蔵展示されている、Bayeux Tapestry (バイユー・タペストリー)の19世紀復刻版の話。(通称「タペストリー」と呼ばれているけれど、実際には刺繍されたもの。)
本家の方、11世紀のバイユー・タペストリーも、5年前の夏にノルマンディー・ドライヴでバイユーに立ち寄った時に見に行ったことがある(その時の話は<このページ>に)。
レディングの方は、その19世紀の復刻版。
レディング博物館に現在所蔵されているけれど、これはレディングで製作されたものではなくて、1885年にスタッフォード州の刺繍グループ、Leek Embroidery Society(リーク刺繍協会)の女性たちによって制作されたもの。
このグループのリーダー、Elizabeth Wardle(エリザベス・ワードル)が本家のバイユー・タペストリーを見学した時に、「イギリスにも、この復刻版があるべきだ」と思い立ち、グループの35人の女性の協力のもと、1年かけて1886年に完成された。
サウスケンジントン博物館(現V&A)から提供された、水彩着彩の白黒写真を元にして図案が複写され、エリザベスの夫でシルク染工場を経営するThomas(トマス)が、できる限りオリジナルに忠実な毛糸・染色方法で刺繍糸を製作・提供した。
完成後は、イギリス各地で、またドイツやアメリカでも巡回展覧される。
1895年にレディングで展覧されていた時に、リーク刺繍協会はこの作品の売却に応じることを決定し、レディングの前市長だったA A Hill氏が£300で買い取って、レディング市に寄贈した。
その後も、世界各地に貸し出し巡回展覧された後、1993年にレディング博物館に、現在の専用ディスプレイ室が完成して、以降ここで常設展示されている。
前回も書いたけれど、本家の方は撮影禁止なので、まったく写真がなくて、かなり不満だったけれど、ここではフラッシュなしの撮影可。 なので、またまた、いろいろ撮ってしまったのだった。
ちなみに、本家の方は全編を<このページ>で見ることができる。(クリックで拡大。)
これがタペストリーの始まりのシーン。
エドワード証聖王(懺悔王とも訳されている)が、ノルマンディー公ウイリアム(のちの征服王)を、
イングランド王位後継者に指名する旨伝えるべく、
義兄(嫁さんエディスの兄)ハロルド(ハロルド2世=ハロルド・ゴドウィンソン)をノルマンディーに派遣する。
(元々は、「王妃マティルダのタペストリー」と呼ばれ、征服王の妻マティルダが制作させたと考えられていた。)
いずれにせよ、ウィリアム征服王・ノルマン側が、アングロサクソン系の王ハロルドを打ち負かしたのは、先代のエドワード証聖王が、ウィリアムを正当な後継者として指名していたからで*、ハロルドはそれを「不当に」横取りしたからだ・・・という、とても一方的なノルマン側の言い分に基づいて、ここでのストーリーは展開される。
史実は・・・たいがいそんなことはない。正当も不当もなくて、単に権力争いで、うまくやったもん勝ち・・・の、時代であった(あ、いつの時代でもそうか・・・笑)。
*ウィリアム征服王の祖父ノルマンディー公リチャード2世が、エドワード証聖王の母エマと兄弟・・・つまり、大叔父さんにあたって、エドワード証聖王のノルマンディー亡命期に親しかった、という根拠だそう。(オタッキーな覚書)
で、船出するのだけれど、強風にあおられて、
Count Guy of Ponthieu(ポンティユー伯ガイ)の領土に難破してしまう。
そして、まんまと身代金目当てにガイに捕まってしまう。
話は刺繍糸の話になって、この写真の船の部分で、
刺繍糸が褪色しているのがよくわかる。
船の縁の模様部分と、船の櫂の部分は、
本家ではダークグリーン。
ここでも多分もともと同じような色が使われていたのだろうが、
船の後ろの方が激しく褪色してしまっている。
19世紀コピーの方は、全体的に、色の褪色が目立つため、
本家よりコントラストの弱いものになっている。
11世紀の糸の方が、19世紀の糸より色持ちがいいって不思議ー。
その知らせを受けたウィリアムが、
ハロルドを救出するべく、使者を送る。
ウィリアムの尽力(と、多分身代金支払い)で、
自由の身になったハロルドがガイにひき連れられて、
ハロルドに身柄を渡される。
真ん中のハロルド、捕虜なんだけれど、当時の貴族の捕虜は一応客人扱いなので、鷹を手に優雅なもの。
で、ハロルドはアングロサクソン人なので、初期ビートルズ(?)のようなヘアスタイルにヒゲ。
一方、ノルマン系の連中、上に出てきたウィリアムや、ここで前にいるガイ達のヘアスタイルが、どうやら後ろ刈上げというか、剃り上げスタイル。<こんなもの>が、史実に忠実なもののよう。
このタペストリーでもその違いが、描き分けられている。
(ちなみに、ノルマン人の祖先ヴァイキング達は、この頃でもずーっと、ロン毛。)
もう一つ、くだらない話。
タペストリーの枠外に、あまりストーリーとは関係ない・・・ような、動物やら人物やらがいろいろ(たぶん)模様のつもりで描かれているのだけれど、このシーンの下にはなぜだか裸の男女が描かれていて、男が女に求愛ちう(?)な様子。
本家の方では、男の股間にナニな状態の一物がはっきり描かれているのだけれど、そーゆーことに目くじら立てまくりのヴィクトリアン期の復刻版には、もちろんそれは削除されている。次に、もう一つ露骨な例をご紹介しよう(笑)。
あれ?日本ってこういうのまずかったのかな?
(え?19世紀のままなのだっけ?)
ってもう、記憶が定かでないけど、
自主規制で小さく、でも載せる(笑)。
この後、話は、ハロルドとウィリアムの交渉に入って、その時にウィリアムが娘を、ハロルドに嫁がせようという話が出るシーンの下、枠外に意味不明でこのような不埒な輩(左)が登場。復刻版の方では、右のようにパンツ穿かされてる。
これは、刺繍家のご婦人方が自主規制したのかと思いきや・・・、サウスケンジントン博物館(現V&A)からの資料の段階で、修正されていたものだそう。 ローマ時代の彫刻や、ルネサンス絵画にもイチジクの葉っぱを、つけて回っていた時代なことゆえ(笑)。
本題に戻って、ウィリアムは反乱を起こした、
ブリタニー公コナン討伐軍に、ハロルドの参戦を依頼する。
クエスノン川を渡るシーンの向こうに見える、
亀の甲羅状のものは、モン・サン・ミシェル。
その後、ブリタニー公領の町Dol,、Rennes、Dinanを次々陥落させて、
コナンを降伏させる。
その後、バイユーに一行は向かい、
聖堂内の聖遺物にかけて、ハロルドはウィリアムに、
臣下としての忠誠を誓う・・・のシーンなんだけれど、
大聖堂のシュールな構造に目を奪われて、
肝心の忠誠を誓うハロルドを、右に見切ってしまっていた。
写真の右に座っているのがウィリアム、で、
右端が聖遺物箱。そのまた右画面外にハロルドがいる。
これがまだ、話の伏線になる前半で・・・なかなか、話が進まないな・・・。
その後ハロルドは無事、イングランドへ帰国し、
エドワード証聖王に使命の遂行を報告する。
が、程なくして、エドワード証聖王が死去する。
写真を撮り忘れてたけど、(本家のこのシーンは<このページ>に)
ここで、すかさずハロルドが、貴族の支持を取り付けて、
イギリス国王に即位してしまう。
そのニュースは、スパイによって、あっという間にウィリアムの耳に届き、
イングランド侵略を決意したウィリアムは、
侵略用の船の建造を依頼する。
ウィリアムの右隣に座っているのは、
ここでは名前が出てこないけれど、トンスラ(剃髪)頭から、
ウィリアムの異母弟のオド。
彼が船の発注を取り仕切っていた。
この次に船の建造シーンがあって、
船が完成して、武具・兵器を積み込んでいるシーン。
チェーン・メイルは重いので、二人がかりで運んでいた様子。
馬も積み込んで、海峡を渡る。
船団は、Pevensey Bay(ペヴェンシー湾)に上陸。
上陸したのは6000-7000人の軍団とされている。
東のHastings(へースティングス)に向かいキャンプをはる。
で、まずは腹ごしらえの宴会。
バーベキューというか、焼き鳥というか・・・。
なにかというと、真ん中によく出てくるオド司教。
自分が発注したものだったら、当然といえば当然か。
そして、作戦会議ちう。
ここでもウィリアムの左で、アドヴァイスしているのはオド。
右側はウィリアムの異母弟で、オドの実兄弟のロバート。
このオド、聖職者だけれども、当時の貴族なので戦闘参加。
後半ではチェーンメイル着用で、
メイス(こん棒?)振りかざして戦うシーンあり(写真は撮り逃し・・・)。
「恐喝・強盗で財を成した」と記録に残るほどの強者だそう(笑)。
ハロルドの動きが報告される。
このころ時を同じくして、ハロルドの弟トスティが、
ノルウェー王ハーラル3世を引き込んで、反乱を起こし、北のヨークを制圧。
ハロルドは、これをBattle of Stamford Bridge
(スタンフォード・ブリッジの戦い)で撃破していたところ。
で、ウィリアムの上陸を聞いて、400km弱を7000の全軍をひき連れて、
南下し、バトルの丘の上(有利なポイント)に陣をはろうとしていた・・・ということ。
ウィリアム側としては、ハロルドが態勢を整えないうちに、
開戦に持ち込みたかったので、1066年10月14日朝に進軍開始。
ちなみに、10月14日頃の週末は、バトルでリ・エンアクトメント(歴史再現)の、
コスチューム模擬戦闘イベントが行われているのだった。
今年は950年記念だったので、一段と大規模だったとか。
ノルマン側の進撃。
ところで、ノルマン側は弓兵で一斉射撃しておいて、
このシーンのように槍を持つ騎兵が、
突撃・退却を繰り返す戦闘方式。
対するアングロサクソン側は、
盾をみっちり組んで防御し進軍、
(これはローマ兵の戦闘方式と似ている)
長斧を振り回す切込み歩兵で、前線を切り開く戦闘方式。
通常、逆しずく型の長盾はノルマン盾で、
アングロサクソン側は、丸盾が定説なのだけれど、
実際にはアングロサクソン側でも、長盾が使われていたのだそう。
戦闘は膠着状態で、午後に至るが、
ウィリアムは、アングロサクソン側の陣形を崩すことに成功。
ここで、ハロルドが目を矢で射抜かれて戦死。
一気にノルマン側の勝利が確定する。
あ、この左から2つ目の盾がアングロサクソンの丸盾。
そもそも、ハロルドが目を射抜かれて死んだというのは、聖なるもの(聖遺物)にかけた誓(この場合、ウィリアムに臣従の忠節を誓った)を、破ったものに対する天罰を象徴していて、いくつか同様の伝説がみられるのだとか。
この伝説が後年できあがって、本家の方のこのシーンは、その伝説に準じるために、矢の部分が14世紀以降に付け足された、とも考えられている。
で、この人物がハロルド、ということになったのだけれど、本来は馬の前に倒れている(写真では右にはみ出している)人物が、ハロルドという説もある。
というわけで、現在では死因は確定はされていない。
ここで、ウィリアムの王位が確定して、
この後に戴冠のシーンがあったはず・・・なのだけれど、
本家の方でそれは失われていて、この戴冠に向かうシーン(?)
でタペストリーは終わっている。
復刻版の方は、その後にこの作品の制作についての解説が、
刺繍されている。
その下には、参加者の名前がスタンプされている。
また、全編に本家にはないもう一つ下の枠組みが
(写真でははみ出しているけれど)採られていて、
そこに「ここまではXXXXの制作」というように、
制作者名が刺繍で綴られている。
これは、刺繍の技法を解説したもの。
ステム・ステッチでアウトラインを描いてから、
中を色糸で埋めていく刺し方。
この辺のノルマン王家あたりの
イギリス中世史が専門(?)だったのだけど、
ずいぶんいろいろ忘れてしまっていたので、
散々調べものして、記憶を呼び戻した今回の標本箱。
最後のおまけヴィデオは、
その、今年のヘイスティングスの戦い950年記念、
リ・エンアクトメントの様子をYoutubeから。
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by KotomiCreations
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